フェリーナブログ

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『もののけ姫』に登場する「シシ神」は、なぜ「シシ神」という名前なのか?

もののけ姫』の物語のなかの、「3つの世界」

どうやら、『もののけ姫』の世界には、大きく分けて、次の3つの世界があるように思えます。その3つの世界とは、「人間たちの世界」と「もののけ達の世界」、そして、その2つの世界を内包する「自然界」です。

もちろん、これらそれぞれの世界の中にも、
さらに細かい世界があり、それらの間での対立や抗争があります。たとえば、「人間たちの世界」のなかには、タタラ場の衆と、地侍たちの戦や、お互いを利用しあっているタタラ場のエボシ御前と、師匠連との関係などがあります。

また、「もののけ達の世界」のなかにも山犬族と、猩々(しょうじょう)たちとの確執やイノシシ族と、山犬族との意見の相違、などがあります。このように、ミクロな視点で見れば、それぞれの世界の内にも、対立関係や抗争があるものの、全体としてみれば、『もののけ姫』の舞台となっている世界は、さきほどお話したような、次の3つの世界によって成り立っている、ということです。

「人間たちの世界」
もののけ達の世界」
その2つの世界を内包する「自然界」 

そして、なによりも重要なのは、「人間たちの世界」と「もののけ達の世界」の2つの世界が、「自然界」に内包されているということです。そして、「人間たちの世界」と「もののけ達の世界」の、2つの世界をすっぽり抱えこんでいる「自然界」の象徴が、「シシ神」なのです。

ですが、ここで疑問が生まれてきます。どうして、「自然界そのものの象徴」である神の名称に、「食肉としての獣」という意味の「シシ」という言葉がついているのでしょうか?

なぜ、自然界の象徴である「シシ神」が、「シシ」と呼ばれているのか?

「シシ神」という存在は、「自然界そのものの象徴」として「もののけ姫』では描かれていますが、「シシ」という言葉の意味は、「獣」や、「獣の肉」という意味です。

しかし、「シシ神」は、「シシ」という名がついてはいるものの、「自然界そのものの象徴」であり、獣ではありません。「シシ神」は、姿かたちこそ、獣の姿ですが、その本質は「自然界そのもの」です。そのような存在であるにもかかわらず、「シシ神」は、獣の姿をしていて、名前にも、獣を意味する「シシ」という言葉がついています。この理由は、おそらく「シシ神」という存在が、「人間に食い物にされる自然」を象徴しているからだと思います。

「シシ」という言葉は、人間にとっての「食肉」すなわち、「人間の糧(かて)となるべき存在」です。つまり、食肉として人間に狩られる運命にある獣たちと同様に、「シシ神」という存在によって象徴されている「自然界」もまた、「人間の糧(かて)となるべき存在」であるということです。

もののけ姫』の物語のなかでは、タタラ場の人間たちが、木を切り、山を削り、森を切り拓くという行為を繰り返しています。そして、そうしたタタラ場の人間の行為の象徴として、タタラ場の首領であるエボシ御前が「シシ神殺し」を行います。この「シシ神殺し」とは、「森殺し」つまり、人間の糧(かて)とするために「自然界」を殺すということです。余談ですが、宮崎駿監督は、『もののけ姫』の物語をつくるにあたって、古代オリエントの文学作品である『ギルガメシュ叙事詩』から着想を得たそうです。

ギルガメシュ叙事詩』の物語では、主人公である英雄ギルガメシュと、その親友の獣人エンキドゥが、レバノン杉の森へ行き、その森の守り神である「フンババ」と戦って、その首を切り落とす、という場面があります。その後「神殺し」を終えたギルガメシュとエンキドゥは、レバノン杉をうち倒し、それらの木材を故郷に持ち帰ります。(参考:(矢島文夫 訳) 『ギルガメシュ叙事詩』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1998、p72-76)

ちなみに、森の神「フンババ」が守護していたとされるレバノン杉の森は、かつて中近東全域に広がっていましたが、人間による伐採により森は消失し、現在では、ごく一部の地域にレバノン杉が散在するだけという、絶滅の危機に瀕している状態です。

さて、この『ギルガメシュ叙事詩』の物語中の「神殺し」の場面は、『もののけ姫』の物語のなかにも取り入れられ、「シシ神」がその首を奪われるという場面に活かされています。このように、「シシ神」は、人間の糧(かて)とされるために殺されていく「自然界」を比喩的に表現したキャラクターなのです。

また、「シシ神」が、「自然界そのものの象徴」であるにもかかわらず、獣の姿をしていて、「シシ」という、「獣」や「獣の肉」を表す名前がついている理由は、「人間に食い物にされる獣」と同じように、「人間に食い物にされる自然」である、ということを連想したからなのでしょう。

おのれが、神の命を絶ち、その肉ししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや腕ちぎりて、犬に飼ひてん

さて、こうして、人間の糧(かて)とするべく、「シシ神」、つまり、「自然界」を殺した人間たちですが、そのまま人間たちの大勝利とはいかず、人間たちは「神殺し」の報いを受けることになります。その結果、師匠連の唐傘連たちや、狩人のジバシリたちなどは次々に命を奪われてしまいます。また、いままで散々、山を切り拓いてきたタタラ場も、「自然界」を殺した報いとして、壊滅的な打撃を受け、廃墟になってしまいます。

このような数々の「報い」のなかでも、人間たちの代表として、最も分かりやすいかたちで報いを受けたのは「神殺し」の張本人であるエボシ御前でした。彼女は、「神殺し」の報いとして、頭だけになった山犬のモロに、右腕を食いちぎられてしまいます。余談ですが、物語の序盤で、彼女は次のように言っていました。「首だけになっても食らいつくのが山犬だ」(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後48分ごろ)

また、別の場面では、対する山犬モロが、次のように語っていました。「私はここで朽ちていく体と森の悲鳴に耳を傾けながら あの女を待っている あいつの頭を噛み砕く瞬間を夢見ながら」(モロ、『もののけ姫』、開始後1時間20分ごろ)

そして、エボシ御前が自ら語っていたとおり、首だけになったモロに腕を食いちぎられてしまったエボシ御前は次のような言葉を吐いています。「モロめ 首だけで動きおった」(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後1時間54分ごろ)

ついでながら、『もののけ姫』製作中での宮崎駿監督の構想では、終盤でエボシ御前が死ぬ、というシナリオもあったそうです。ですが、ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんによれば、最終的には、宮崎駿監督が「やっぱり殺せないよ、エボシは」と言ったことで、エボシ御前は死なずにすんだそうです。(参考:メイキング・ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた。』より)

さて、この文章の冒頭で引用させていただいた、『宇治拾遺物語』のなかの「吾妻人、生贄をとどむる事」からの引用のなかに、「おのれが、人の命を絶ち、その肉ししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや首斬きりて、犬に飼ひてん」という言葉がありました。

この言葉の意味は、「こやつめ、人の命を絶ち、その肉を食いなどする者は、こうだぞ。おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ。確かにそっ首を斬り落として犬に食わせてやろうぞ」という意味です。(参考:「六 吾妻人、生贄をとどむる事」、『宇治拾遺物語』(新編 日本古典文学全集50)、小学館、1996、p.317)

この言葉は、「自然界」を殺した報いを受けたエボシ御前の状況ととてもよく似ていると思います。そこで、この「吾妻人、生贄をとどむる事」という話のなかのセリフを借りてエボシ御前の状況を表現すると、「おのれが、神の命を絶ち、その肉ししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。そのしや腕ちぎりて、犬に飼ひてん」といった感じになると思います。 

この言葉の意味としては、「こやつめ、神の命を絶ち、その肉を食いなどする者は、こうだぞ。おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ。確かにその腕をちぎって犬に食わせてやろうぞ」といった感じです。ここで言っている、「神の命を絶つ」というのは、「シシ神」、すなわち、「自然界」を殺すということです。また、「その肉を食べる」というのは、木を切り、山を削って自然を殺し、それを人間の糧(かて)にする、ということです。

そして、「おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ」というのは、もしも、自然界の声無き怒りの呻きが人間に聞こえるのであれば、その声を聞け、ということです。最後に、「腕をちぎって犬に食わせてやろう」というのは、まさに、人間たちの代表として、最も分かりやすいかたちで報いを受け、山犬のモロに腕を食いちぎられたエボシ御前のことを表しています。

もののけ姫』は不条理な世界を懸命に生きる者たちの物語

人もまた、悲しく儚い存在。このように、結果として、「シシ神殺し」、つまり、「自然界」を殺したことの報いを受けて人間たちの世界は、壊滅的な被害を受けてしまいます。これだけをみれば、自然を破壊した人間が諸悪の根源であるかのように感じてしまうかもしれません。

ですが、だからといって、「自然を侵す人間は悪だ」という単純で直情的な考え方は、『もののけ姫』という物語の全編を通じて訴えられていることとは、まったく違うと思います。たとえば、物語の流れ上、悪役となっていたエボシ御前は、本当に悪人なのでしょうか?また、森と、そこに棲む命を奪う人間たちを、絶対的な悪だと言い切れるでしょうか?

人は、貪欲で、度し難い存在ではあるけれども、それでも、削り取られていく森や、殺されていくもののけ達と同じように、人もまた、悲しく儚い存在であるということが、この物語に登場する、ジコ坊や、タタラ場の女たち、そして病者の長などの言葉となって、表現されているような気がします。

「戦、行き倒れ、病に飢え 人界は恨みを飲んで死んだ亡者でひしめいとる タタリというなら この世はタタリそのもの ん、うまぁい」

「里へ下りたのは間違いでした 二人も殺めてしまった・・・」

「いや、 おかげで拙僧は助かった 椀を出しなさい まず食わねば 人はいずれ死ぬ 遅いか早いかだけだ」(ジコ坊とアシタカの会話、『もののけ姫』、開始後16分ごろ)

「厳しい仕事だな」

「そうさ、四日五晩踏み抜くんだ」

「ここの暮らしはつらいか?」

「そりゃさぁ・・・でも、下界にくらべりゃずっといいよねぇ?」

「うん お腹いっぱい食べられるし 男がいばらないしさ」

「そうか・・・」
(タタラ場の女たちとアシタカの会話、『もののけ姫』、開始後44分ごろ)

「お若い方・・・私も呪われた身ゆえ あなたの怒りや悲しみはよーく判る 判るが どーかその人を殺さないでおくれ その人はわしらを人として扱って下さった たった一人の人だ

わしらの病を恐れず わしの腐った肉を洗い
布を巻いてくれた・・・生きることはまことに苦しくつらい・・・世を呪い 人を呪い
それでも生きたい・・・どうか 愚かなワシに免じて・・・」(病者の長、『もののけ姫』、開始後40分ごろ) (*10)

この物語に登場するものたちは皆、無慈悲で不条理な自然に抱かれながら、誰もが、ただ懸命に生きようとしただけではないでしょうか?