フェリーナブログ

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好きなものや興味を持ったことを発信したり、本当のことを世の中の人に伝えたくてブログを書いています。このブログでは真実を発信し続けることを此処に誓います。

胎児、進化の旅は5億年、胎児の1日は160万年以上の時の流れに相当する

人間の胎児は10カ月で5億年の進化をたどる
精子卵子が出会って、受精卵の姿から、脊椎動物の始祖として海の中で“生”をうけた原始魚類、陸に上がった古代魚、そして鰓呼吸から肺呼吸へと移った両生類、陸の王者として一時代を築いた爬虫類、現在の地球上を支配する哺乳類……という具合に、その“姿”をつぎつぎと変えながら、胎児は大きくなっていきます。

つまり、5億年におよぶ生命進化の過程で、みずから形成してきた「形」を、もう一度再現しながら、現時点での進化の到達点である「人間の形」へと変容して行く……これが胎児です。

形態学では、この変容(変身)のことをメタモルフォーゼと言うそうですが、これこそ、生命の持つきわめて厳粛な出来事であり、5億年にわたる壮大なスケールの“下敷き”があって、はじめて演じられる“進化の歴史”そのものです。

この地球上に、初めて生命が誕生したのが、今から30億年前。約30億年前の先カンブリア紀、原始のスープとよばれる海に、単細胞の微生物が誕生しました。やがてこれが多細胞の生物へと変身し、カンブリア紀以降、生命は、5億年という長い長い進化の旅を始めることになります。

逆からいえば、30億年以上かけて、現代の私たちの姿形へとなっていった。そしてそのプロセスを、胎児は、母親のお腹の中で再現させているのです。単細胞の生命から始まって、心臓が動き出し、受精後30日ぐらいから魚類になり、両生類になり、手が生まれ、爬虫類になり、哺乳類になり、やがて刻々と人間(ヒト)になっていきます。

悪阻ツワリとは何か
5億年にも及ぶ進化の長い歴史を、わずか300日の妊娠期間中に再現してみせる胎児ですが、生命の神秘はすさまじく、この再現スピードは驚くほど速いです。妊娠期間の一日は、160万年以上の進化のスパンに相当するのです。

妊娠中に、多くの妊婦さんが、“悪阻”をおぼえます。これも胎内の進化と大いに関係しています。この悪阻が起きる妊娠初期の頃とは、進化のステージでいえば、どの段階なのでしょうか?それを知るには、約4億年前の地球の状態を考える必要があります。

4億年前、地球の大変動で海が浅くなり、干上がりかけた陸地に取り残された数多くの古代魚が、陸地で干上がる危機に瀕した古代魚は“のたうち回って”空気中から酸素の呼吸を余儀なくされました。重力が水中の6倍になり、過酷な環境にあって、古代魚は“のたうち回って”空気中から鰓エラで呼吸をし続けるうち、血圧が上がり空気呼吸に対応できる肺ができました。こうして、鰓から肺へと呼吸が移っていき、これらの古代魚は、やがて陸上での生息に適応できるようになったのです。

これが古代魚の“上陸劇”です。ここから哺乳類型爬虫類と両生類・爬虫類・鳥類へと進むイクチオステガ(イクチオは魚という意味で、魚類型爬虫類のこと)の二つの流れに分かれます。

胎児は5億年の進化を再現しますが、上陸劇は、人間の胎児ではいつ再現されるのでしょうか?それは妊娠初期の32日目から38日目の6日間です。そしてちょうどこの時期から“悪阻”が起きるのです。

この時期の胎児は、かつて4億年前に、古代魚が上陸劇で味わった“のたうち回る”ような苦しみを、母親のお腹の中で再び体験しているのです。そして悪阻はちょうどこの時期から始まります。この時期が胎児の危機で、実際、息も絶え絶えの上陸劇がそっくり胎児において再現されますが、ヘタをすると死んでしまったり、奇形が発生しやすい時期でもあります。

つまり、母親のお腹の中で進化を再現しつつある胎児の、上陸劇における“追体験”を、母親も“悪阻”という形で共有しているものと思われます。なぜなら、水棲の生き物から、陸上の生き物への“変容”は容易なものではなく、多くの生命がこの段階で失われるからです。胎児も実際、息が絶え絶えになって上陸劇のときとそっくり同じように、胎児の身体もまた「免疫システム」「造血システム」「自律神経」「体壁筋肉系」が大きく変化しています。第二革命の重力と空気呼吸への対応で血管系の変化がもっとも顕著に起こり、鰓呼吸用の血管から肺呼吸用の血管へと、大きく変化していきます。

胎児の苦しみに、母親の身体が反応しているのが悪阻なのです。このとき、お腹の胎児は、はるか4億年前の進化のステップアップをしているのであり、これを乗り切ることで、一歩一歩人間へと近づいていくのです。

消費増税本格化、さらなる貧困化への追い討ちの始まり

2019年10月の消費税増税時に導入されたキャッシュレス決済のポイント還元が6月30日で終了してしまいますね。

今回は消費増税が招く日本貧困化へのさらなる追い討ちと、このまま貧困化が進むと日本はどうなってしまうのか?について焦点を当てていこうと思います。

政府の赤字1000兆円とは
このような話を聞いたことがありませんか?

” 政府の赤字1000兆円、国民1人あたり800万円 “

さて質問です。皆さんはいつ政府から800万円を借りたのでしょうか。そしてその800万円はいつ返済するのでしょうか。ここにレトリックがあります。

政府はこれだけ大変なことになっているから国民の皆さんも ” 増税 ” に賛成してくださいね・・ と。増税はインフレ率を抑制する安定化装置であり、決して借金を負担するものではありません。

日本でいえば、バブル期に国民の所得があがり、物価が急騰する中での調整としての増税は必要です。しかし現在のようにデフレ化で、物価は下落している中での増税は国民を苦しめるだけであるということです。

幾度となく消費増税が国民を苦しめている

消費税が10%になり、一気に日本のGDPは悪化しました。この際の安倍総理の発言が「景気は緩やかに回復傾向にあります」でした。その後新型コロナウィルスにより経済は大打撃を受けましたが、忘れてはいけないのが ” 日本はコロナ前から増税により、経済は悪化している ” ということです。

アベノミクスでは、日銀による量的金融緩和はありますが、その後財政出動を行なっていません。量的緩和でマネタリーベースを増やしましたが、財政出動が行われないと国民の所得が上がりません。金融緩和を行なったのは日銀ですが、財政出動は政府の役割です。米国ではFRBがしっかりとその旨を伝えている場面があります。「我々は量的緩和を行った、あとは政府の役割だ」と。

財政出動どころか2014年に行ったのが消費税8%増税です。

・1989年(平成元年)4月1日:3%
・1997年(平成9年)4月1日:5%
・2014年(平成26年)4月1日:8%
・2019年(令和元年)10月1日:10%(軽減税率8%)

さらにはコロナ税などという話もチラついています。

消費増税はさらなる貧困化への追い討ちの始まり

日本で増税が行われるとGDPは悪化し自殺者が増えます。いわゆる国民貧困化です。諸外国で税率が高いなどの話がありますが、あれは所得が上がっているからという前提であり、日本は長期間、GDPの上昇がありませんので、増税は日本経済を衰退させるだけです。GDPとは言いかえれば国民一人一人の所得です。給料が上がっていないのです。給料が上がっていない中で増税をするとどうなるか?

消費税を上げていくほど、個人消費が落ち込むので、GDPのうち個人消費が占める割合は6割弱を占めているので、日本経済の衰退は免れられません。これが国民を貧困化させ続けている消費増税の実態です。

国民が貧困化している原因は、財政の健全化にあり

日本政府の緊縮財政が日本経済を衰退させ続けている

日本は今、デフレがずっと続いています。インフレ率が上昇していない中で消費税増税を行うと、国民が貧困化するのは当然なのですが、なぜか政府は執拗に消費税を上げたがります。
さらに、消費税は社会保障の財源にとって必要不可欠であるといわれる中、社会保障にはぼぼ使われていないなど、最近では多くの疑問点が浮上してきています。

平成大不況はなぜ起こったのか?これは紛れもなく政府の政策とそれを支えた経済学者の発想にあると言わざるをえません。

緊縮財政や増税など日本は財政を引き締める対策を行なってきました。これを ” 財政健全化 ” などともいいますが、これは健全化という言葉だけでみると、非常に素晴らしいことのように見受けられますが、実際はそうではありません。

” 財政を健全化で国民は貧困化 “

これは紛れもない事実です。緊縮財政を行うと企業は投資を控えます。投資を控えると雇用や生産能力が衰退しますので、自然と経済は悪化していきます。経済が悪化すれば国民の所得は下がる、もしくは横ばいで一向に生活が楽になりません。生活が楽にならないとどうなるか?国民は消費を控えます。

政府による緊縮財政 ⇒ 企業が投資を控える ⇒ 成長が止まる ⇒ 失業、雇用者への還元の減少 ⇒ 消費を控える ⇒ その先の企業の収益が減少 ⇒ さらに消費減退

このような負のスパイラルに陥ります。

財政出動を行うとどうなるのか
逆に緊縮財政ではなく、財政出動を行うとどうなるのか?これについて考えてみましょう。財政出動とは政府が国民のために行います。例えば公共工事が良い例でしょう。

これは日本の老朽化したインフラ整備にも必要です。最近ではトンネル内でコンクリートの落下が起こったり、災害時に公共整備がされていないがゆえの被害も出ています。昨年の東京を襲った大雨では、利根川が決壊寸前までいきましたが、事なきを得ました。

これは財政出動が反対される中で行ったダム工事があったからです。これがなければ利根川は氾濫、東京都民は命の危険や水害によるダメージ、損失ははかりしれないものとなったでしょう。ですので必要なところや、政府にしかお金をかけられないところには、財政出動が必要なのです。政府にしかお金がかけられないというのは、簡単にいえば民間が行っても大した利益にならないことです。ここを補うのが日本政府の役割なのです。

国策として行うことにより、民間企業も設備投資を始めます。そこには雇用が生まれ新たな生産も生まれます。そうなるとどうなるか?収入増加による消費意欲が回転し、景気がよくなってきます。財政出動は必要なところには行うべきであるというのが、この循環でお分かりいただけたのではないでしょうか。

ですが、いまの日本の経済状況では、積極的な財政出動により、国民にお金を回すことが最重要にも関わらず、政府はそれを拒み続けているのが現状です。

長く続くデフレとコロナ禍により、一般庶民の生活は地盤沈下寸前の所まで来ています。政府には一刻も早く、緊縮財政に固執するのではなく、積極的な財政出動に舵を切ってもらいたいものです。

日本経済がデフレから脱却出来ない本当の理由

日本経済のヤバさは世界と比べるとわかりやすい

「最近経済が低迷しているよね」という意見をよく聞きます。日本だけの統計を見るとそうなのですが、世界との比較で見ると、とてつもない大転落をしているのです。

国連統計で世界中の国の経済の大きさ、GDPがわかりますが、世界のなかで日本が何%を占めているか。このGDPシェアを見ると1995年には17.5%、ほぼ18%でした。ところが2016年になると6.5%。この20年間で日本経済は世界シェアが3分の1に落ちているのです。
逆に言うと、日本経済が世界の普通の国並みの成長をしていたら、現在の我々の所得は3倍だったということです。世界中の経済が良くなって生活が潤っているのに、日本だけが良くなっていないのです。

実は人口も就業者数も増え続けているという事実

なぜ、日本は20年以上もの間、デフレから脱却出来ないのでしょうか?こうなってしまった原因として一般の人が信じている話として、1つは「人口が減少しているから」。もう1つは「高齢化で働く人の数が減ってしまったから」というのがあります。

この説を唱えた人があちこちのメディアに出て話すので、色んな人がこの話を信じてそう思っているのですが、これは真っ赤な嘘です。

なぜかと言うと、3分の1に転落した95年から2016年、この21年間の変化を見ると、人口は1%増えています。増えているのは高齢者であって労働人口ではない、という考え方もありますが、就業者数は21年間で0.1%増えています。人口も働く人の数も増えているのに、3分の1に転落したということです。

緊縮財政をするから日本はいつまでもデフレを脱却出来ない

デフレから脱却出来ないのは、政府が緊縮財政の方針を取り続けているからに他なりません。

戦争、紛争の無い国で20年以上デフレが続いている国は日本しかありません。
平成の三十年。GDPゼロ成長は世界最低。平均給与は10%ダウンは世界最低。税率は大幅アップで世界最高! 

 30年前から初任給上がらないのに年収から引かれる税は30年前の25%から46.6%になりました。(消費税、社会保険料含む)それでも苦笑しながら仕方がないと強者に従う、日本国民が安倍政権を支えています。
日本人の労働者の質は世界水準でトップクラスであるにも関わらず、デフレを脱却出来ていないのは、政府のせいとしか言いようがありません。デフレから脱却出来ていないのは、緊縮財政の方針を政府が取り続けているからです。不景気の時は緊縮財政ではなく、積極的な財政出動をしなくてはなりません。

『もののけ姫』に登場する「シシ神」は、なぜ「シシ神」という名前なのか?

もののけ姫』の物語のなかの、「3つの世界」

どうやら、『もののけ姫』の世界には、大きく分けて、次の3つの世界があるように思えます。その3つの世界とは、「人間たちの世界」と「もののけ達の世界」、そして、その2つの世界を内包する「自然界」です。

もちろん、これらそれぞれの世界の中にも、
さらに細かい世界があり、それらの間での対立や抗争があります。たとえば、「人間たちの世界」のなかには、タタラ場の衆と、地侍たちの戦や、お互いを利用しあっているタタラ場のエボシ御前と、師匠連との関係などがあります。

また、「もののけ達の世界」のなかにも山犬族と、猩々(しょうじょう)たちとの確執やイノシシ族と、山犬族との意見の相違、などがあります。このように、ミクロな視点で見れば、それぞれの世界の内にも、対立関係や抗争があるものの、全体としてみれば、『もののけ姫』の舞台となっている世界は、さきほどお話したような、次の3つの世界によって成り立っている、ということです。

「人間たちの世界」
もののけ達の世界」
その2つの世界を内包する「自然界」 

そして、なによりも重要なのは、「人間たちの世界」と「もののけ達の世界」の2つの世界が、「自然界」に内包されているということです。そして、「人間たちの世界」と「もののけ達の世界」の、2つの世界をすっぽり抱えこんでいる「自然界」の象徴が、「シシ神」なのです。

ですが、ここで疑問が生まれてきます。どうして、「自然界そのものの象徴」である神の名称に、「食肉としての獣」という意味の「シシ」という言葉がついているのでしょうか?

なぜ、自然界の象徴である「シシ神」が、「シシ」と呼ばれているのか?

「シシ神」という存在は、「自然界そのものの象徴」として「もののけ姫』では描かれていますが、「シシ」という言葉の意味は、「獣」や、「獣の肉」という意味です。

しかし、「シシ神」は、「シシ」という名がついてはいるものの、「自然界そのものの象徴」であり、獣ではありません。「シシ神」は、姿かたちこそ、獣の姿ですが、その本質は「自然界そのもの」です。そのような存在であるにもかかわらず、「シシ神」は、獣の姿をしていて、名前にも、獣を意味する「シシ」という言葉がついています。この理由は、おそらく「シシ神」という存在が、「人間に食い物にされる自然」を象徴しているからだと思います。

「シシ」という言葉は、人間にとっての「食肉」すなわち、「人間の糧(かて)となるべき存在」です。つまり、食肉として人間に狩られる運命にある獣たちと同様に、「シシ神」という存在によって象徴されている「自然界」もまた、「人間の糧(かて)となるべき存在」であるということです。

もののけ姫』の物語のなかでは、タタラ場の人間たちが、木を切り、山を削り、森を切り拓くという行為を繰り返しています。そして、そうしたタタラ場の人間の行為の象徴として、タタラ場の首領であるエボシ御前が「シシ神殺し」を行います。この「シシ神殺し」とは、「森殺し」つまり、人間の糧(かて)とするために「自然界」を殺すということです。余談ですが、宮崎駿監督は、『もののけ姫』の物語をつくるにあたって、古代オリエントの文学作品である『ギルガメシュ叙事詩』から着想を得たそうです。

ギルガメシュ叙事詩』の物語では、主人公である英雄ギルガメシュと、その親友の獣人エンキドゥが、レバノン杉の森へ行き、その森の守り神である「フンババ」と戦って、その首を切り落とす、という場面があります。その後「神殺し」を終えたギルガメシュとエンキドゥは、レバノン杉をうち倒し、それらの木材を故郷に持ち帰ります。(参考:(矢島文夫 訳) 『ギルガメシュ叙事詩』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、1998、p72-76)

ちなみに、森の神「フンババ」が守護していたとされるレバノン杉の森は、かつて中近東全域に広がっていましたが、人間による伐採により森は消失し、現在では、ごく一部の地域にレバノン杉が散在するだけという、絶滅の危機に瀕している状態です。

さて、この『ギルガメシュ叙事詩』の物語中の「神殺し」の場面は、『もののけ姫』の物語のなかにも取り入れられ、「シシ神」がその首を奪われるという場面に活かされています。このように、「シシ神」は、人間の糧(かて)とされるために殺されていく「自然界」を比喩的に表現したキャラクターなのです。

また、「シシ神」が、「自然界そのものの象徴」であるにもかかわらず、獣の姿をしていて、「シシ」という、「獣」や「獣の肉」を表す名前がついている理由は、「人間に食い物にされる獣」と同じように、「人間に食い物にされる自然」である、ということを連想したからなのでしょう。

おのれが、神の命を絶ち、その肉ししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや腕ちぎりて、犬に飼ひてん

さて、こうして、人間の糧(かて)とするべく、「シシ神」、つまり、「自然界」を殺した人間たちですが、そのまま人間たちの大勝利とはいかず、人間たちは「神殺し」の報いを受けることになります。その結果、師匠連の唐傘連たちや、狩人のジバシリたちなどは次々に命を奪われてしまいます。また、いままで散々、山を切り拓いてきたタタラ場も、「自然界」を殺した報いとして、壊滅的な打撃を受け、廃墟になってしまいます。

このような数々の「報い」のなかでも、人間たちの代表として、最も分かりやすいかたちで報いを受けたのは「神殺し」の張本人であるエボシ御前でした。彼女は、「神殺し」の報いとして、頭だけになった山犬のモロに、右腕を食いちぎられてしまいます。余談ですが、物語の序盤で、彼女は次のように言っていました。「首だけになっても食らいつくのが山犬だ」(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後48分ごろ)

また、別の場面では、対する山犬モロが、次のように語っていました。「私はここで朽ちていく体と森の悲鳴に耳を傾けながら あの女を待っている あいつの頭を噛み砕く瞬間を夢見ながら」(モロ、『もののけ姫』、開始後1時間20分ごろ)

そして、エボシ御前が自ら語っていたとおり、首だけになったモロに腕を食いちぎられてしまったエボシ御前は次のような言葉を吐いています。「モロめ 首だけで動きおった」(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後1時間54分ごろ)

ついでながら、『もののけ姫』製作中での宮崎駿監督の構想では、終盤でエボシ御前が死ぬ、というシナリオもあったそうです。ですが、ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんによれば、最終的には、宮崎駿監督が「やっぱり殺せないよ、エボシは」と言ったことで、エボシ御前は死なずにすんだそうです。(参考:メイキング・ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた。』より)

さて、この文章の冒頭で引用させていただいた、『宇治拾遺物語』のなかの「吾妻人、生贄をとどむる事」からの引用のなかに、「おのれが、人の命を絶ち、その肉ししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや首斬きりて、犬に飼ひてん」という言葉がありました。

この言葉の意味は、「こやつめ、人の命を絶ち、その肉を食いなどする者は、こうだぞ。おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ。確かにそっ首を斬り落として犬に食わせてやろうぞ」という意味です。(参考:「六 吾妻人、生贄をとどむる事」、『宇治拾遺物語』(新編 日本古典文学全集50)、小学館、1996、p.317)

この言葉は、「自然界」を殺した報いを受けたエボシ御前の状況ととてもよく似ていると思います。そこで、この「吾妻人、生贄をとどむる事」という話のなかのセリフを借りてエボシ御前の状況を表現すると、「おのれが、神の命を絶ち、その肉ししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。そのしや腕ちぎりて、犬に飼ひてん」といった感じになると思います。 

この言葉の意味としては、「こやつめ、神の命を絶ち、その肉を食いなどする者は、こうだぞ。おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ。確かにその腕をちぎって犬に食わせてやろうぞ」といった感じです。ここで言っている、「神の命を絶つ」というのは、「シシ神」、すなわち、「自然界」を殺すということです。また、「その肉を食べる」というのは、木を切り、山を削って自然を殺し、それを人間の糧(かて)にする、ということです。

そして、「おまえら、もし耳を持っているなら、よく聞けよ」というのは、もしも、自然界の声無き怒りの呻きが人間に聞こえるのであれば、その声を聞け、ということです。最後に、「腕をちぎって犬に食わせてやろう」というのは、まさに、人間たちの代表として、最も分かりやすいかたちで報いを受け、山犬のモロに腕を食いちぎられたエボシ御前のことを表しています。

もののけ姫』は不条理な世界を懸命に生きる者たちの物語

人もまた、悲しく儚い存在。このように、結果として、「シシ神殺し」、つまり、「自然界」を殺したことの報いを受けて人間たちの世界は、壊滅的な被害を受けてしまいます。これだけをみれば、自然を破壊した人間が諸悪の根源であるかのように感じてしまうかもしれません。

ですが、だからといって、「自然を侵す人間は悪だ」という単純で直情的な考え方は、『もののけ姫』という物語の全編を通じて訴えられていることとは、まったく違うと思います。たとえば、物語の流れ上、悪役となっていたエボシ御前は、本当に悪人なのでしょうか?また、森と、そこに棲む命を奪う人間たちを、絶対的な悪だと言い切れるでしょうか?

人は、貪欲で、度し難い存在ではあるけれども、それでも、削り取られていく森や、殺されていくもののけ達と同じように、人もまた、悲しく儚い存在であるということが、この物語に登場する、ジコ坊や、タタラ場の女たち、そして病者の長などの言葉となって、表現されているような気がします。

「戦、行き倒れ、病に飢え 人界は恨みを飲んで死んだ亡者でひしめいとる タタリというなら この世はタタリそのもの ん、うまぁい」

「里へ下りたのは間違いでした 二人も殺めてしまった・・・」

「いや、 おかげで拙僧は助かった 椀を出しなさい まず食わねば 人はいずれ死ぬ 遅いか早いかだけだ」(ジコ坊とアシタカの会話、『もののけ姫』、開始後16分ごろ)

「厳しい仕事だな」

「そうさ、四日五晩踏み抜くんだ」

「ここの暮らしはつらいか?」

「そりゃさぁ・・・でも、下界にくらべりゃずっといいよねぇ?」

「うん お腹いっぱい食べられるし 男がいばらないしさ」

「そうか・・・」
(タタラ場の女たちとアシタカの会話、『もののけ姫』、開始後44分ごろ)

「お若い方・・・私も呪われた身ゆえ あなたの怒りや悲しみはよーく判る 判るが どーかその人を殺さないでおくれ その人はわしらを人として扱って下さった たった一人の人だ

わしらの病を恐れず わしの腐った肉を洗い
布を巻いてくれた・・・生きることはまことに苦しくつらい・・・世を呪い 人を呪い
それでも生きたい・・・どうか 愚かなワシに免じて・・・」(病者の長、『もののけ姫』、開始後40分ごろ) (*10)

この物語に登場するものたちは皆、無慈悲で不条理な自然に抱かれながら、誰もが、ただ懸命に生きようとしただけではないでしょうか?