フェリーナブログ

フェリーナ☆ブログ

好きなものや興味を持ったことを発信したり、本当のことを世の中の人に伝えたくてブログを書いています。このブログでは真実を発信し続けることを此処に誓います。

『もののけ姫』のアシタカの受けた呪いの力について

アシタカのモンスター化

アシタカは、戦に巻き込まれた時に、普通に弓を構えて矢をパーンと射っただけで、相手の侍の両腕ごと落とすほどの怪力を見せます。それどころか、次の矢を射ると、相手の首がポーンと切れるんですよ。これにはアシタカ自身も驚いていますが、これは、この時点で、彼にはそういうパワーが与えられているからなんです。

そして、それは聖なるパワーであると同時に呪いのパワーなんです。呪いのパワーはアシタカを死に至る苦しみへと誘い、そして、聖なるパワーは彼の力を無限大に膨らませて行きます。アシタカは、タタラ場に行った時にも、傷ついたサンを担いで「どいてくれ!俺は行くんだ!」と、本来は何十人掛かりでやっと開けられるような巨大な木の扉を、1人で、それも片手だけでグーッと押し開けます。ここで使うのも、やっぱり呪いを受けた右手なんですよ。

これは何かというと「アシタカの中で、怒りとか悲しみとか不条理なものへの何かが吹き出すと、無限のパワーが出てくる」ということなんですね。僕らは、こういった、アシタカが無限のパワーを、ある程度、意のままに使っているシーンしか見ていないので「そんなものか」と思ってしまうんですが、あれは明確にアシタカが段々と怪物になっていく途中を描いているんです。その結果、「アシタカがどんどん怪物になっていく」という描写も、表現としては怪物じみているんですけど、僕らとしては、スーパーヒーロー的な良いことみたいに思っちゃうんです。だけど、それは違うんですね。

 アシタカが、指先ひとつで相手の刀をグニャっと曲げて、最後は親指と人差指だけで刀をへし折るシーンとかも出てきますが、あれは完全に「怒りによって力が暴走していって、モンスター化している」という表現なんです。最初は、アシタカも、落ち着いて自分の心をコントロールしていました。「村から出て行け」と理不尽なことを言われても「わかりました」と言って、ため息を吐くくらいでした。しかし、映画の後半では「興奮すると、どんどん力が暴走して、自分でも制御できなくなる」というところがハッキリと出てきます。

おヒイ様の策謀

そして、おヒイ様は、あの村でただ1人それに気が付いているんですね。怖いのは死んだタタリ神じゃないんですよ。おヒイ様にとっては、これからタタリ神になり、人間でなくなってしまうアシタカこそが、一番怖かったわけです。だから「アシタカは良い子で、たぶん、うちの村を継いで良い王になってくれるだろうけど。しかし、もうすぐ彼は、痛みと恨みと自分に降り掛かってきた不条理に対する怒りで、怪物になってしまう。その前に村を追い出そう」と考えたんです。

でも、アシタカも村人も、これには全く気が付いていません。なので、アシタカは「西に行けば呪いを解けるかもしれない」と信じているし、「この村に、これ以上、呪いが感染らないように」と思ってしまって、自分自身が呪いそのものであるとは気が付いていないんです。その上で、さらに「このタタリ神となる若者を、我々の村にタタリを押し付けた西にある大和の王の元に送り込んでしまおう」と考えています。

この時代の縄文人の考え方では、タタリというのは、誰かに返さないといけないものなんです。こういうのを「忌み返し」と呼びます。何か忌むことをされた場合は、それと同じように相手を忌むことで返すのが、未開部族の間のルールとしてあるんです。平安時代になってくると“式神返し”とか、もう少し体系化されるんですけど。なので、おヒイ様は、すごいポーカーフェイスで“戦略兵器”としてのアシタカを、西の大和の国へと送りつける忌み返しを発動させたわけですね。数週間か数ヶ月後には、アシタカもまたタタリ神となって、変な蛇みたいなウネウネしたものが身体にいっぱい巻き付いて、西の国を襲うことになるだろうとは、わかっていないわけです。

劇中には、たぶん、おヒイ様と同様に、それに気が付いていたかもしれない人物がもう1人出てきます。それが、ジコ坊という、もう少し後で出てくる、なんかちょっと複雑な、ワケアリな設定のおじいさんです。この人も、最初にアシタカに会った時「こんな鉄の弾がイノシシに入っていました。そのおかげで、私は呪いを受けました」と言う彼をしばらく見て、急に「ここから西の端のもっと西の方に行くと、山の中にすごい神がいる。その神に会えば、君の呪いもなくなるかもよ」と言うんですよね。これはつまり「ジコ坊はジコ坊で、デイダラボッチという大怪物に、このアシタカという大怪物をぶつけることによって、退治しよう」と思ったからでしょう。

 このように『もののけ姫』という作品は、個人個人が持っている思惑とか戦略とかを、あえてそのまま表現せずに、あくまでもアシタカの視点だけで見られるように作っているので、そこら辺がなかなか分かりにくくなっているんです。