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『もののけ姫』の「シシ神」とは、どのような役割をし、どのような意味を持つ存在なのか?

もののけ姫』の「シシ神」とは、どのような役割をし、どのような意味を持つ存在なのか?
もののけ姫』の舞台となっている世界において、「シシ神」がどのような存在であるのか、ということを考えてみたいと思います。

結論から言ってしまうと、「シシ神」は、「自然界そのものの象徴」です。このことは、「シシ神」が生と死を司る存在であることからも明らかです。また、「シシ神」の夜の姿である「デイダラボッチ」について、宮崎駿さんは次のように考えていたそうです。

宮崎駿さんのイメージでは、デイダラボッチは「夜」そのもの。「夜が歩いているように」が発想の原点であった。メイキング・ドキュメンタリー『「もののけ姫」はこうして生まれた。』、「第2章 生命が吹き込まれた!」より

このように、「シシ神」は、「自然界そのものの象徴」なのです。乙事主(おっことぬし)や、モロの君は、一見するとまるで「シシ神」と同列であるかのように同じ「神」という名で呼ばれています。ですが、乙事主(おっことぬし)や、モロの君がいかに数百年を生きる生命力と、深い知恵と、強大な力をそなえた存在であるとはいえ、「自然界そのものの象徴」である「シシ神」と比べれば、彼らは所詮、「少々知恵をつけた大きな獣」に過ぎません。

つまり、「自然界そのものの象徴」である「シシ神」は、「少々知恵をつけた大きな獣」たちとはまったく別次元の存在なのです。また、「シシ神」は、もののけ達と人間の争いの最大の争点であるにもかかわらず、常にどちらの側に付くでもなく、傍観者のように、「我関せず」といった態度で勝手気ままに行動しているように見えます。

そして、ときに、まるで気まぐれのように、人間であるアシタカの命を救ってみたり、かとおもえば、「シシ神」と「シシ神の森」を守る側である乙事主(おっことぬし)や、モロの命を奪い去ってしまったりと、不可解ともとれる行動をとっています。このような行動をとる「シシ神」という存在は、もののけ達や人間達の立場からしてみれば、一見すると、無慈悲で不条理な存在に見えるかもしれません。

しかし、たとえば、空に輝く太陽は、生き物たちがどんなに祈り、願おうと、そんなものには見向きもせずに、ただ、昇り、沈んでいくだけです。これと同じように、「自然の象徴」である「シシ神」もまた、生き物たちの意志などとは無関係に、ただ、あらゆるものを循環させていく、という存在なのです。ですから、「シシ神」には、感情や、個としての意志はまったくありません。これは、太陽や、風や、川に感情や意志がないのと同じです。「シシ神」という存在は、「自然界そのものの象徴」なので、本質的に、太陽や、風や、川と同じような存在なのです。そのため、「シシ神」は、もののけ達にも、人間達にも味方するようなことはないのです。

「シシ神」が、一見、不条理で無慈悲な存在に見えるのはこのためなのです。「シシ神」は、言ってみれば、「応(こた)えない神」なのです。『もののけ姫』の映画を見た人は、物語の終盤で、乙事主(おっことぬし)が言った、次のような悲痛な叫びが印象に残っているかもしれません。シシ神よ出でよ!汝が森の神なら我が一族をよみがえらせ 人間を滅ぼせ!(乙事主、『もののけ姫』、開始後1時間41分ごろ)

この場面は、人間との戦いで瀕死の重傷を負い、ボロボロになった乙事主(おっことぬし)が、最後の力を振り絞って「シシ神」を呼んでいる場面です。この乙事主(おっことぬし)のセリフにあるように、「シシ神」が森の神なのであれば、森と、その森の神である「シシ神」を、人間の魔の手から守ろうとしているもののけ達に味方をするのが当然のように思えます。それにもかかわらず、「シシ神」は乙事主(おっことぬし)の味方をすることはなく、それどころか、「シシ神」と森を守るために命をかけて戦った乙事主(おっことぬし)の命を吸い取ってしまいます。

このように、いくらもののけ達が「シシ神」を崇めていたとしても、もののけ達と「シシ神」は、決して協力関係にあるわけではありません。「シシ神」は、相手が誰であるかに関係なく、与えもすれば、奪いもする存在なのです。

『もののけ姫』のアシタカの受けた呪いの力について

アシタカのモンスター化

アシタカは、戦に巻き込まれた時に、普通に弓を構えて矢をパーンと射っただけで、相手の侍の両腕ごと落とすほどの怪力を見せます。それどころか、次の矢を射ると、相手の首がポーンと切れるんですよ。これにはアシタカ自身も驚いていますが、これは、この時点で、彼にはそういうパワーが与えられているからなんです。

そして、それは聖なるパワーであると同時に呪いのパワーなんです。呪いのパワーはアシタカを死に至る苦しみへと誘い、そして、聖なるパワーは彼の力を無限大に膨らませて行きます。アシタカは、タタラ場に行った時にも、傷ついたサンを担いで「どいてくれ!俺は行くんだ!」と、本来は何十人掛かりでやっと開けられるような巨大な木の扉を、1人で、それも片手だけでグーッと押し開けます。ここで使うのも、やっぱり呪いを受けた右手なんですよ。

これは何かというと「アシタカの中で、怒りとか悲しみとか不条理なものへの何かが吹き出すと、無限のパワーが出てくる」ということなんですね。僕らは、こういった、アシタカが無限のパワーを、ある程度、意のままに使っているシーンしか見ていないので「そんなものか」と思ってしまうんですが、あれは明確にアシタカが段々と怪物になっていく途中を描いているんです。その結果、「アシタカがどんどん怪物になっていく」という描写も、表現としては怪物じみているんですけど、僕らとしては、スーパーヒーロー的な良いことみたいに思っちゃうんです。だけど、それは違うんですね。

 アシタカが、指先ひとつで相手の刀をグニャっと曲げて、最後は親指と人差指だけで刀をへし折るシーンとかも出てきますが、あれは完全に「怒りによって力が暴走していって、モンスター化している」という表現なんです。最初は、アシタカも、落ち着いて自分の心をコントロールしていました。「村から出て行け」と理不尽なことを言われても「わかりました」と言って、ため息を吐くくらいでした。しかし、映画の後半では「興奮すると、どんどん力が暴走して、自分でも制御できなくなる」というところがハッキリと出てきます。

おヒイ様の策謀

そして、おヒイ様は、あの村でただ1人それに気が付いているんですね。怖いのは死んだタタリ神じゃないんですよ。おヒイ様にとっては、これからタタリ神になり、人間でなくなってしまうアシタカこそが、一番怖かったわけです。だから「アシタカは良い子で、たぶん、うちの村を継いで良い王になってくれるだろうけど。しかし、もうすぐ彼は、痛みと恨みと自分に降り掛かってきた不条理に対する怒りで、怪物になってしまう。その前に村を追い出そう」と考えたんです。

でも、アシタカも村人も、これには全く気が付いていません。なので、アシタカは「西に行けば呪いを解けるかもしれない」と信じているし、「この村に、これ以上、呪いが感染らないように」と思ってしまって、自分自身が呪いそのものであるとは気が付いていないんです。その上で、さらに「このタタリ神となる若者を、我々の村にタタリを押し付けた西にある大和の王の元に送り込んでしまおう」と考えています。

この時代の縄文人の考え方では、タタリというのは、誰かに返さないといけないものなんです。こういうのを「忌み返し」と呼びます。何か忌むことをされた場合は、それと同じように相手を忌むことで返すのが、未開部族の間のルールとしてあるんです。平安時代になってくると“式神返し”とか、もう少し体系化されるんですけど。なので、おヒイ様は、すごいポーカーフェイスで“戦略兵器”としてのアシタカを、西の大和の国へと送りつける忌み返しを発動させたわけですね。数週間か数ヶ月後には、アシタカもまたタタリ神となって、変な蛇みたいなウネウネしたものが身体にいっぱい巻き付いて、西の国を襲うことになるだろうとは、わかっていないわけです。

劇中には、たぶん、おヒイ様と同様に、それに気が付いていたかもしれない人物がもう1人出てきます。それが、ジコ坊という、もう少し後で出てくる、なんかちょっと複雑な、ワケアリな設定のおじいさんです。この人も、最初にアシタカに会った時「こんな鉄の弾がイノシシに入っていました。そのおかげで、私は呪いを受けました」と言う彼をしばらく見て、急に「ここから西の端のもっと西の方に行くと、山の中にすごい神がいる。その神に会えば、君の呪いもなくなるかもよ」と言うんですよね。これはつまり「ジコ坊はジコ坊で、デイダラボッチという大怪物に、このアシタカという大怪物をぶつけることによって、退治しよう」と思ったからでしょう。

 このように『もののけ姫』という作品は、個人個人が持っている思惑とか戦略とかを、あえてそのまま表現せずに、あくまでもアシタカの視点だけで見られるように作っているので、そこら辺がなかなか分かりにくくなっているんです。

『もののけ姫』に登場する「シシ神」の「シシ」という言葉は、なにを意味している言葉なのか?

「おのれが、人の命を絶ち、その肉ししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや首斬きりて、犬に飼ひてん」 

――「吾妻人、生贄をとどむる事」、『宇治拾遺物語

「生きることはまことに苦しくつらい・・・
 
 世を呪い
 人を呪い
 それでも生きたい・・・」

―― 病者の長、『もののけ姫

宮崎駿さんが脚本を担当し、スタジオジブリが製作した、長編アニメーション映画『もののけ姫』という作品があることはご存知だと思います。

この『もののけ姫』の物語のなかに、「シシ神」という名前の「神」が登場します。この「神」、すこし変わった名前だと思いませんか?「神」であるにしては、
すこし威厳に欠ける名前のように感じられます。これなら、猪族の長である巨猪、
「乙事主(おっことぬし)」の方が、
よほど威厳のある名前のように感じます。この「シシ神」は、『もののけ姫』の物語のなかで
もっとも重要な神です。それにもかかわらず、
なぜ「シシ神」という名前が付いているのでしょうか?今回は、このことについて、考えてみたいと思います。

 

「シシ」という言葉は、なにを意味している言葉なのか?

「シシ神」という名前について考えるにあたって、まず最初に、「シシ神」という名前のなかの「シシ」という言葉の意味について、考えてみたいと思います。

もののけ姫』の物語のなかには、「シシ」という言葉の意味を示唆するヒントが、いくつかあります。たとえば、物語の序盤で、謎の僧侶ジコ坊が、アシタカと一緒に粥をすすっているときに言った、次のセリフ。

「ほう、雅な椀だな そなたを見ていると古い書に伝わる古の民を思い出す 東の果てにアカシシにまたがり石の矢じりを使う 勇壮なる蝦夷の一族ありとな」
(ジコ坊、『もののけ姫』、開始後17分ごろ)

このジコ坊のセリフのなかの「アカシシ」というのは、あの愛くるしい鹿のような動物、ヤックルのことです。ここでも、「シシ」という言葉がでてきます。また、タタラ場の長であるエボシ御前もヤックルのことを「シシ」と呼んでいます。「そなたの国は?見慣れぬシシに乗っていたな」(エボシ御前、『もののけ姫』、開始後37分ごろ)

この「シシ」という言葉は、いったいどういう意味の言葉なのでしょうか?『広辞苑』によれば、「しし」という言葉には、以下のような意味があります。

しし【肉・宍獣】
にく。特に、食用の獣肉。
(『広辞苑 第五版』、岩波書店

しし【獣・猪・鹿】
(肉の意より転じて)
①けもの・野獣。特に、食肉のために捕獲する「いのしし(猪)」「かのしし(鹿)」をいう。
(『広辞苑 第五版』、岩波書店

このように、「鹿」(しか)という動物は、「かのしし」と呼ばれることもあります。このことから、ヤックルのような動物が、「アカシシ」と呼ばれている理由がわかります。つまり、ヤックルのような動物は、赤っぽい色をした「鹿」(しし)という意味で、「アカシシ」と呼ばれているのでしょう。

また、このほかの場面でも、たとえば、猪族の長である乙事主(おっことぬし)が、次のようなセリフを言っています。「わしの一族を見ろ みんな小さくバカになりつつある このままではわしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう」
(乙事主、『もののけ姫』、開始後1時間11分ごろ)

このセリフも、「しし」という言葉の意味を考えるにあたって、参考になります。この場面では、乙事主(おっことぬし)は、誇り高いイノシシ族が人間に食肉として扱われるようになることを危惧しています。

ですが、実は、さきほどご説明したように「しし【獣・猪・鹿】」という言葉には、「食肉のために捕獲する『いのしし(猪)』」という意味があります。つまり、「イノシシ」という言葉自体に、「食用の肉」という意味があり、これは、誇り高いイノシシ族への侮辱でもあるわけです。

もののけ姫』の物語のなかでは、イノシシ族が人間との戦いに敗北するところまでしか描かれていませんが、おそらく、その後、イノシシ族は、人間にとっては、もはや「敬い畏れる神」ではなく、名実ともに「食べるための肉」として扱われていくのでしょう。これは、つまり、残念ながら、乙事主(おっことぬし)が危惧していたことが現実のものになってしまった、ということです。

そして、また、もののけ達が人間との戦いに敗れてしまったということは、イノシシ族だけの問題ではなく、シシ神の森に棲むすべての生命が、人間にとっての「食肉」すなわち、「人間の糧(かて)となるべき存在」として、劣位に貶められることになってしまった、ということなのです。

余談ですが、この文章の冒頭の『宇治拾遺物語』からの引用にあった、「肉(しし)むら」という言葉には、次のような意味があります。

しし-むら【肉叢・臠】
肉のかたまり。また、その肉体。
(『広辞苑 第五版』、岩波書店

この言葉も、ここまで見てきた「肉(しし)」という言葉と同系統の言葉です。

さて、ここまでで、「シシ」という言葉には、「食肉としての獣」というような意味があることがわかりましたね。ちなみに、「シシ」は「シシ」でも、「ライオン」を意味する「獅子」 (しし)という言葉は、たまたま、発音が同じだけで上記の「肉(しし)」という言葉とは、語源的には無関係な言葉のようです。

『もののけ姫』のアシタカの心は不条理に対する怒りで震えていた!?

もののけ姫は、様々なテーマが複雑に絡み合っていて、なかなか一言でどういう映画か言い表すのが難しい映画ですよね。

事実、宮崎駿監督も『もののけ姫』という映画の“狙い”について、以下のように語っています。

「世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮の最中にあっても、生きるに値することはある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る」

もののけ姫には色んなメッセージが含まれていますが、これらの事を踏まえた上で、今回はアシタカの心にピックアップして記事を書いていきたいと思います。        

 

もものけ姫のストーリー展開

呪いをかけられたアシタカは自分の髷を切り落とします。アシタカの村の男達はみんな頭に髷を結っていますが、これを切ります。この「髷を落とす」ということは、「一族でなくなる」=「二度と帰れない」という意味なんです。村を出なければいけなくなったアシタカに対し、なぜ、彼がそうしなければならないのかを、ヒイ様が説明します。

ヒイ様は「西の国で何か不吉なことが起こっている。その地に赴き、曇りのない眼で物事を見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ」と言います。この言葉を聞いたことで、アシタカは西に行こうと決意します。同時に、僕ら観客も、なんとなくそれで納得させられるというか、騙されてしまうんですね。 

 

そもそもなぜ、アシタカは村を去らなければいけないのか?

なんでヒイ様は西に行かせようとしているのか?いや「呪いを解く方法が見つかるかもしれぬ」って言ってるんですけど、それって何の根拠があって言ってるの?そんなふうに思うんです。アシタカは呪いを受けて、右腕にアザが出来てしまいます。この毒が行く行くは骨にまで達して、彼は死んでしまう。この死から逃れるために、西に旅をする。

もののけ姫の大筋のストーリー展開については、多くの人はこのように考えていると思います。これが『もののけ姫』のストーリー展開だというふうに、今の今まで、僕らは思わされていますが、だけど、それだけなら、そもそも追放する必要なんてないんです。

なぜなら「タタリ神が死んだ場所には塚を築いてちゃんとお祀りします」って言っていますから。いやいや、そんなことはない。あの怪物は死ぬ時に「死んだ後も呪ってやる!」と言ったじゃないか、と思うかもしれませんが、この映画の中には、犬の神様とか、イノシシの神様とか、いろんな神様が出てきますが、死んだ後で祟った神様は誰1人としていないんです。

この映画の中に出てくる神様というのは、たしかにすごい巨大な力を持っていて、身体も大きいんですけど、それだけなんですね。テレパシーみたいな超常現象みたいなものは一切使えない。まあ、唯一、シシ神だけが、ちょっと不思議な力を持ってるんですけど、他の神々は、そんなものを持っている描写がないんですよね。もちろん「死んだ神々が、死後も続く呪いを残す」なんて描写も1つもありません。乙事主もモロも、この映画の中で死にますけど、死んだらそれっきりです。つまり、死後の呪いなんていうものは、この物語の世界にはないんです。


じゃあ、なぜアシタカは追放されたのか?

それはもう「ヒイ様が追放したいから」なんですよ。なぜ、アシタカに呪いに関する話をする時のヒイ様が、ポーカーフェイスで語っているのかというと「演技しているから」なんです。村人もアシタカも気がついてないんですけど、ヒイ様の心の中にだけ、ちゃんと理由があるんです。

それは何かというと、アシタカの呪いの正体というのは「死ぬこと」ではなく、「アシタカ自身がタタリ神になること」なんですよ。アシタカは、これからゆっくりタタリ神になっていくんですね。ついさっき村を襲った怪物と同じように、自分の痛みや苦しみに段々と耐え難くなり、自分の運命を呪うようになる。たぶん、襲ってきたイノシシ神も、最初はそれを理性で抑えていたんですけど、徐々に徐々に、タタリ神になってしまった。それと同じように、アシタカは次のタタリ神になる運命を受けてしまったんですね。


アシタカの心の中には己に降りかかってきた不条理に対しての絶望や怒りというのがある

アシタカという男は、表面上は無表情で、すごくジェントルに描いてあります。そして、こういった「礼儀正しい態度とは裏腹に、彼の中には深い絶望や怒りがある」ということは、あえて今回は描かないと、宮崎駿は言ってるんです。なので、アシタカの内面は台詞になって表れません。だから、ただぼんやりと観ているとアシタカの心の葛藤には気付くことはできませんが、アシタカの心の中には「最後にはやっぱりタタリ神になってしまうのか?それとも、人間のまま生きて行けるのか?」という葛藤が常にあり、突然己に降りかかってきた不条理に対する怒りに震えているのです。

バブル経済はプラザ合意によってもたらされた

1985年9月22日、日米英仏独(当時は、西ドイツ)の先進5か国の大蔵大臣と中央銀行総裁が極秘にアメリカ・ニューヨークに集まり、会談。この時に交わされた為替レート安定化の合意は、日本は金利を引き下げることにより、ドルの為替相場を支えるということでした。いわゆる「プラザ合意」です。プラザ合意は、世界経済安定のために、先進諸国が協調して相場に介入した事例として語られていますが、それは表向きのことにすぎません。

アメリカの金融侵略の手口

当時大蔵大臣だった竹下登以下日本の高官は、日銀を含む日本の投資家にアメリカの貿易赤字の資金援助を行なうよう働きかけることにより、日本経済を歪めることに合意しました。具体的に言えば、日本が輪出で稼いだドルを米財務省証券(米国債)に投資させたのです。日本人は余剰ドル(日本の貿易黒字)を円に換えて日本国内(および海外の新しい生産設備)に投資するのではなく、そのドルをアメリカへ融資するよう求められたのです。アメリ力の狙いは、これによって「ドルの還流」を刺激することでした。

日銀は、価格の高い(すなわち、金利の低い)財務省証券を購人せざるをえませんでした。そして、それがさらに別の副産物を生むことになる。この取引によって日本は低金利政策を敷くことになり、またアメリカでも日本から大量の資金が流入してきたことが低金利につながりました。そこに銀行の安直な融資が加わり、両国内で金融バフルが膨らんだのです。こうして日米は1980年代後半、バブル経済へと突人したのです。

日本に大量に財務省証券を買わせておきながら、アメリカ人自身は財務省証券は購入せず、アメリカの株式や不動産市場で儲けていました。金利を意図的に低く仰えることによって、日本と同様アメリカ市場も活性化しました。しかしアメリカの場合、日本がその要請に従ったがゆえの活況でした。

結局、日本の大蔵省は、自国の経済に低金利の貸し付けをあふれさせただけではなく、アメリカ経済へも巨額の資金を流出させ、アメリカの低金利をも可能にしたのです。アメリカにとっては、まさにこれが「プラザ合意」の真の目的でした。

当時は健全であった日本経済は、不健全なアメリカ経済への資金援助のために、自国の経済均衡を犠牲にするよう求められました。インフレを誘発するアメリカ経済が均衡を保てるよう、日本の通貨制度を不安疋にしてアメリカと釣り合わせることを要求されたのです。

このプラザ合意では、「釣り合い」と「均衡」を回復するためにという大義名分が掲げられましたが、それは不健全な経済を健全にするのではなく、健全な経済を同じように不健全で不均衡でインフレ過剰のものにすることによって維持されたのです。これを実現可能にしたのが日本であり、その結果、日本は深い痛手を負いました。

当時のアメリカはレーガノミクスによって、巨額の財政支出にもかかわらず富裕者の税金は削減され、貿易赤字財政赤字が増加するにもかかわらず、金融緩和策がとられ金利は下げられてました。この後に統いた通貨供給量の増加と産業の空洞化はさまざまな問題を引き起こしましたが、その治療をするよう求められたのはアメリカ国民ではなく、日本でした。日本はブラザ合意でアメリ力の抱える双子の赤字に資金援助を行なうことに応諾したのです。この治療こそ、バブル経済で知られる状況を生んだのです。

アメリカに還流した日本の資金は、日銀の余剰ドルばかりではありませんでした。アメリカの外交官が日本の高官に圧力をかけたのと同じように、日本政府は日本の投資家に「アメリカに投資しなさい」とささやきかけたのです。日本が金利を意図的に低く仰えることによって、アメリ力への投資は儲かるという幻想を抱かせたのです。それは、確実に日本全体の経済を歪めていきました。

バブル当時、多くの日本企業がアメリカの不動産や企業を買収し、またドル建て債券に金を注ぎ込みましたが、その多くは膨大な損失となって日本経済を餌む一因となったのです。こうしてアメリカは、金本位制から財務省証券制とでも言うべき体制を作り上げていき、そうして、まるで詐欺のような財務省証券制の成立に最も貢献したのが日本なのです。日本は詐欺の片棒を担ぐというより、自国の経済を犠牲にしてアメリカに協力したのです。